実は、今日は私の誕生日で、42歳になりました。
42歳では早いと思うのですが、私もずいぶん涙もろくなりました。
人間は、年を取っていくと自然と心が広くなっていって、自己受容できるようになっていくのですが、涙もろくなるのはそれと関係しています。
心が広くなってくると、泣きたい気持ちを許してあげることができるということです。
若いうちは、涙を流すことを自分自身に許可できず、泣きたい気持ちを無視してしまったり、我慢してしまったりして抑圧しているんですね。
ですから、涙もろくなるのは、年齢相応の心の成長が起きていると言ってよいでしょう。
また、年をとっていくと体が衰えるぶん、心の活動の割合が増えていくので、それも涙もろくなることと関係があるでしょう。
涙を流すというのはとても良いことで、自分の本当の気持ちに気づいたり、認めたりできたときに涙が流れます。つまり、自己受容が進んでいって楽になっていくわけですね。
それは、自然とおきる心の現象なのですが、そこからもう一歩進めてみても良いでしょう。
涙が流れたら、その都度、自分はどういう時のどういう感情のときに涙が流れるかを観察しすることで、自己理解を深めるということです。
例えば、私は映画を見ているときによく泣くのですが、より具体的には、若者が情熱のままに頑張るシーンに心打たれて泣いてしまうことがとても多いです。
映画全体がどんなジャンルであるかはどうでもよくて、10代後半くらいの若者が、若さと情熱と勢いに任せて行動をとるシーンをみると、ボロボロ泣いてしまいます。
涙が流れる背後には相当大きな心の動きがあるわけで、共通性のある同じような場面で毎回涙が流れるのであれば、自分自身の心の中に何かがあると考えてよいでしょう。
つまり、自分はどういうシーンで心が大きく動くのかという観点から、自分自身の心について理解を深めることができるということです。
では、10代後半の若者が情熱に任せて行動するシーンで涙が流れる私は、心の中に一体何があるのでしょうか?
自分自身の10代後半の頃と言えば、大学入試のためにひたすら勉強をしています。
平日は学校から帰ってから深夜2時まで延々勉強して、土日も休むのは土曜日の午前中のみ。土曜の午後と夜、日曜は全日で勉強していました。
私の当時の生活は2つの意味で、「情熱に任せた行動」と関係があります。
まず、ある面においては、情熱に任せて勉強しまくったという側面。
そしてその反面で、他のことを全て我慢して、情熱を抑圧したという側面。
つまり、10代後半の頃の私は、「情熱に任せた行動」に対して真逆な体験と感情を心に抱きながら日々を送っていたわけです。
若者が情熱に任せて行動しているシーンをみると、かつての自分のようだなと懐かしくと同時に、我慢して抑圧された情熱が解放されるわけです。
そういう思いの中で、涙が流れるのだなと解釈しています。
物語というものは誰かの作り話のように思われますが、実は、そこに現れるのは自分自身の心であり、自分自身の心の中にあるものを物語の中に見出して、喜んだり悲しんだりしているわけです。
その意味で、誰かが作った物語も、結局は自分自身で作り直して解釈しているわけです。
このことをさらに拡大してしまえば、物語だけではなくて、この世界そのものがそれと同じなのです。
確かに、目に映る現象は自分以外の誰かが作っているものかもしれませんが、それがどういうものであるかは、自分の心が作り直して解釈しているわけです。
それは、逆に言ってしまえば、自分の心さえ変化させることができれば、この世界がガラリと姿を変えるということ意味しています。
通常はそんなことはできないわけですが、それができてしまうところが、心理療法の醍醐味だなと私は思っています。
泣いたらスッキリしそう…という気がしますが、感情が平坦になって、いつ泣いたか記憶にありません