宮崎駿の新作「君たちはどのように生きるか」が公開になりましたね。
私は、中学生くらいの頃から結構熱烈なファンでして・・・
中3から高1くらいにかけては、ジブリで働きたいと思っていました。
宮崎駿のアニメと言えば、特徴的なシーンがいくつかあります。
例えば、水が必ず描かれているとか、ご飯が美味しそうとか・・・
それに加えて、ふと気づいたのですが、引越しのシーンも多い気がします。
通常的な引越しは、トトロ、魔女の宅急便、千と千尋の3作あります。
その他、もののけ姫では、主人公が呪われたことで共同体を追い出される形で、戻ることのない旅にでます。
ハウルの動く城に至ってはもはや、定住しておらず、城ごとうろうろと徘徊しています。
もののけ姫とハウルも、引越しの亜種と言えると思います。
作品は、作家の心の表現
このようにある作家が繰り返し用いるモチーフには、その作家自身の心の中に深く強い思いがあることが推察されます。
恐らくですが、宮崎駿自身が子供の頃に引越し・転校をしていて、その時にかなり強い感情体験したのだと思います。
私の仕事でセッションをしていると、引越し・転校に伴ってのトラウマを持っている方というのは割といらっしゃいます。
トラウマは、その出来事を繰り返し思い出したり、再体験をしたり、語ったりしたくなるものですから、宮崎駿もトラウマ的引越し体験をもっているのではないかと推察します。
引越しに伴う感情の変化
さて、ところで、私が挙げた5作での引越しは、2つに分類できることにも気づきました。
トトロと魔女の宅急便では、引越しに伴う期待、好奇心、出会いと言ったポジティブな要素が強く語られています。
この時代の宮崎駿はエンターテイメントに徹していましたから、引越しという素材を、観客が楽しめるように料理していたのではないでしょうか。
一方で、もののけ姫、千と千尋、ハウルにおいては、孤独、不安、不条理のようなネガティブな要素が全面に語られています。
宮崎駿はもののけ姫以降、エンタメ路線からアート路線へと切り替えて、一般ウケよりも自分の描きたいことを描くことを優先するスタンスに替わったと思うのですが、その表れの1つとして、引越しの意味合いが変わってきたのだと思います。
つまり、引越しという出来事から楽しいエンターテイメントを描くことから、引越しに伴う孤独、不安、不条理といった宮崎駿の本当の気持ちを正直に表現することに、引越しを描く目的が変わっているように思われるわけです。
「つまらない作品群」の素晴らしさ
宮崎駿の作品は、もののけ姫以降、どんどん難解になっていて、はっきり言ってしまえば、つまらない作品になっていると思います。
その変化の裏側には、エンタメからアートへの路線変更、観客のための作品から自分の表現のための作品、こびる作品からこびない作品といったような変化があるわけです。
実は、私は、宮崎駿の「つまらない作品群」を見ると、なんだか爽快な気持ちになります。
世間の無責任な「つまらない」とか「わからない」とかいう批評に囚われることなく、心の中を素直に表現できることはとても素晴らしいことだと思うからです。
社会の中で生きる私たちも同様に、上司や同僚や配偶者のご機嫌を伺っては、それに沿うように自分の生き方を曲げると言うことが良くあります。
「『つまらない作品群』からは、「そういう生き方をや~めた。俺は自由に生きるもんね」という宮崎駿の主張と言うか、生き方の転換を感じてしまいます。
私の仕事であるサイコセラピーというのもそういう側面があって、社会の中で生きるにあたって、曲げられてしまった気持ちに、気づいてもらうことを目指しています。
そして、自分の本当の気持ちを尊重すること、受容していくわけです。
宮崎駿氏の心に寄り添い、喜んでおられる先生の温かいプロの視点にびっくりしました。
自分だったら、これまでの人生をもとにしてどんな物語を書くのかな?
大監督みたいに他の人への影響はないから、暗〜くてもはちゃめちゃでも自由自在に描けばいいのが気楽ですね。“ことばにする”に励みます。