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執筆者の写真北林陽児

思考と感情の「主従関係」は?

理論的思考こそ至高なのか?


大学時代に、理論的思考を崇め奉る先生がいました。


ありとあらゆる現象は理論的思考によって解決できて、理論的思考こそ至高だから、その能力を高めることが人生の全てだという内容のことを、ひたすら繰り返す先生でした。


世界屈指の外資コンサル会社で活躍してから、大学で教鞭をとっている方で、いかにも「俺デキるよ」という感じの先生で、学生にも人気がありました。


ある時、私は「芸術はどうでしょうか?芸術作品も理論的思考で至高の作品を生み出せるのでしょうか?」と質問したところ、「芸術は複雑だから、その話はやめよう」と言われました笑


当時から思っていたのですが、理論的思考で全てを解決できるというのは、本当に浅はかでしょうもない考え方ですね。


今日は、思考と感情の関係性について書いてみましょう。



感情がないと価値判断ができなくなる。


結論的には、思考と感情の関係性は、「感情が主、思考が従」あるいは、「感情が目的、思考は手段」と言えます。


以前、このブログで紹介した『EQ 心の知能指数』という本の中では、ある実際にあった事故の被害者の事例を取り上げています。


その被害者は、頭が良くて非常に仕事ができる男で周囲からの信頼も厚い人物であったそうです。


ところが事故に遭って脳の感情を司る部分を損傷してしまいます。


その人物はその事故後も変わらず頭がよく理論的思考は問題なかったそうなのですが、全く仕事ができなくなってしまったそうです。


その原因は、物事の優先準備を考えることができなくなって、何が重要で何を行えば良いのか?の判断がつかなくなって、完全に指示待ち人間になってしまったそうです。


この事例から、人間は感情によって、物事の優先順位、つまり価値判断を行っているのだということが明らかになりました。


このことは、実はシンプルな話で、幸せとは何かを突き詰めていくと最終的には感情に至るからです。


つまり、嬉しい、楽しい、気持ちいいといった感情や感覚こそ、幸せの正体なのであって、そういう感情や感覚を味わうことに最終的な価値があるわけです。


価値というとお金を思い浮かべるかもしれませんが、お金を持つことやお金を使うことによって得られる嬉しい、楽しい、気持ちいい、あるいは安心や万能感と言ったような心の中で味わう感情にこそ価値があるわけです。


感情が主であり目的、思考は従であり手段


ここで、「感情が主であり目的、思考は従であり手段」という結論が生まれてくるわけです。


「感情が主であり目的」ということは、「不快感情を避けること」「快感情を得ること」という2つの方向性があり、その二つを実現するために思考が手段として働くわけです。


つまり、2つ以上の選択肢があるときに、どれが快で、どれが不快なのか?という感覚が選択の最終目的になっているということです。


ところが、感情というものには、自分の意志ではコントロールしにくいという厄介な側面があります。


感情は常に揺れ動いてしまうし、その揺れ動きはトラウマの影響などを受けて、取り扱い困難な状況がしばしば発生してしまいます。


主であり目的である感情が迷走してしまうと、従であり手段である思考も迷走してしまって、謎の非合理的な言動を生み出すこととなります。


実は、このことがメンタルヘルスやメンタルケアの重要性の理由です。


主である感情面が整っていないと、建設的・生産的な思考は生まれてこないどころか、否定的・破壊的な思考ばかりが生まれてきます。


さきほどの先生のように理論的思考こそ至高という考え方は、感情面がそれなりに整っているという前提があるわけです。


感情面が整っている状態で、理論的思考を高めてゆけば、生産性が高まることは確かにそうでしょう。


しかし、感情は常に揺れ動きますし、長い人生の中でずっと整った状態が維持され続けるということはないでしょう。


ですから、メンタルケアのスキルや知識を持っていることが重要なんですね。

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