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  • 執筆者の写真北林陽児

鏡の中の人物に、「ボタン外れているよ」と指摘しますか?

「他人は自分の鏡」という言葉を聞いたことはないでしょうか?


セッションを重ねれば重ねるほど、これは真実の言葉だなとつくづく思います。


例えば、私たちが誰かの悪口を言ったとしたら、その悪口の内容は、必ず自分自身にも該当しています。


自分の心の中に、同じ悪い要素があるから、他人にその同じ要素を見出して悪口を言ってしまうわけですね。


しかし、これは苦い真実でもあり、受け入れることが難しい面があります。


しかし、逆に考えてみれば、自分の中に存在しない要素を、他人の中に見出すことができるでしょうか?


例えば、正直者のAさんと、嘘つきのBさんがいたとします。


嘘つきBさんが、正直Aさんに対して「Cさんって嘘つきだよね」と言ったとしても、実はAさんは理解できないということが起きてきます。


このような見解の相違というものは日常生活の中でよくあることです。


その相違、つまり主観的な考え方の違いは、何が原因なのかと言えば、それは2人の主観つまり心に違いがあるとしか言いようがありません。


Aさんの心の中には嘘という要素が存在せず、Bさんには存在するという心の違い以外に原因を求めることはできません。


でも、ここで注意しなければならないことは、嘘つきBさんも別に「嘘だけ」の人物ではないということです。


Bさんの心の中は、嘘つき要素100%というわけではなくて、正直50%嘘50%かもしれないし、正直95%嘘5%であるかもしれません。


逆に正直Aさんだって正直100%かと言えばそうではないでしょう。


他人は自分の鏡なのです。


鏡である以上、ほんのわずかな汚点も映し出して、汚点の存在を教えてくれます。


ちゃんと整髪して、髭を剃って、服を整えて・・・とやっていても、ボタンダウンが外れた状態で鏡を見れば、必ず気づくということです。


自分の心の中に嘘つきの要素がわずかでもあれば、他人が嘘をついているのではないかという疑念が生まれてきます。


そのような自分自身が抱えるわずかな問題を教えてくれる鏡が、他人という存在です。


鏡を見たときにボタンダウンが外れていると気づいたら、ボタンをかければよいだけのことです。


鏡の中に、ボタンダウンが外れている人物を見つけて、その人に「ボタン外れてるよ」と指摘する人はいるでしょうか?


それと同様に、他人の嫌なところを見つけてしまったら、その人の悪口や批判なんてする必要はありません。


自分自身も同じ要素を持っていると気づいて、認めれて、受け入れれば良いのです。


嫌な要素なんて誰でも持っていますが、それはわずかな部分であって、それくらい持っていても、全体像としての自分自身の素晴らしさに影響を与えるものではありません。


だから、認めちゃえばいいんです。


ただそれだけで、スッキリ解放されて、成長できるだけでなく、自分の鏡となってくれた相手も嘘つきには見えなくなって、もっと美しい人に見えてきます。

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